故 繁田正子先生の思い出

 

マーちゃんの思い出 -お母さまと妹さんのお話からー    栗岡成人・青木篤子(タバコフリー京都)

 

2020年9月が終わろうとする爽やかな日曜日の午後、タバコフリー京都の青木篤子事務局長と私(栗岡)は、禁煙学会福島大会の繁田正子賞特別セッション制作にあたって、繁田先生のふるさと多賀を訪れた。多賀では赤い彼岸花と真っ白な蕎麦の花が迎えてくれた。日本酒を醸造する繁田先生のご実家で、お母さまと妹さんに先生の思い出や様々なエピソード、武勇伝を語っていただいた。以下にその一部を紹介する。


生まれたのは北海道北見

多賀で300年続く造り酒屋の三男として生まれた父親中川泰三さんは、第二次世界大戦後、伯父のつてで北海道に移住し石油関連の事業に携わり業績を上げていた。その当時の中川家の長男は東京大学の教授、次男は岡山大学の教授という学者一家でもあった。父親も酒造業を再興すると共に、町会議員、県商工会連合会長などを歴任し、のちに多賀町の町長になられるという名望家であった。正子先生はこの泰三さんと、峻厳な弁護士の父親を持つ母千枝子さんとの間に1956年4月3日に北見で生まれた。

 

マーちゃん、のんちゃん

 中川家は長女正子さんと妹の信子さんの二人姉妹で、北見の幼稚園の頃から家族ではマーちゃん、のんちゃんと呼び合っていた。親は子供の名前を一生懸命考えてつけるものだが、マーちゃんは小学校の頃「私の名前はとても考えて付けたとは思えん」と言ったとか。

多賀大社古例大祭でご奉仕


帰郷

小学校に入る前に、中川一家は家業の酒造業を継ぐために故郷の多賀に戻った。お祖父さんは、マーちゃんのために幼稚園に入れようと奔走されたが、北見の幼稚園側からなぜか「正子ちゃんはしっかりしているので幼稚園に入れないで直接1年生に入れてください。」と言われていたので入園はしなかったという。

 

ガキ大将をやっつける

ということで周りの子供との付き合いもなく小学校に入学したマーちゃんは、言葉がおかしいとか、「トンボ」を知らないとかで馬鹿にされ大変ないじめにあったという。しかしマーちゃんはそんなことでへこたれることはなかった。いじめの頭目であるガキ大将を田んぼに突き落として泥んこにさせて、みんなに一目置かれることになった。そのうち、習っていたピアノを発表会でみんなの前で演奏する機会があり、一躍学校の人気者になってしまった。後にピアノの先生から、自分の母校にピアニストを目指して進学するように勧められたこともあったという。

ピアノ発表会


本の虫

本はよく読んでいた。当時お祖母さんが注文した文学全集が毎月家に届いていたが、届いた日に一晩で読んでしまった。新聞や学習雑誌も好き、漫画のマーガレット(1963年創刊)も大好き。テストがあるのでマーガレットを買わないといったら怒りだして勉強なんかしないと言い放つ。仕方がないので売り切れたといったら、また怒り出す。とうとう彦根まで探しに行ってなんとか買ってきた。

 とにかく勉強はよくできた。しかし、がり勉タイプではなく、授業中はノートや教科書に漫画を描いていて、ちっとも勉強はしなかった。家に帰っても本を読んだり、漫画を夢中になって読んで、自分でも好きな漫画を描いたりして過ごしていた。それでも試験の成績はいつもトップで、お母さんも周りの人も不思議がっていた。マーちゃん曰く「先生を観察していると、試験に出るところは先生が2回言うのでわかる」とか。子供のころから物ごとの本質を把握する力は備わっていたのかもしれない。

 

先生よりも偉い?

小学校4年のころ、腎臓が悪くなって1か月ほど自宅療養していたことがあったが、休み明けにあった試験でマーちゃんは100点満点を取った。ところが他の生徒は試験の成績が悪くて、先生が「私は何を教えていたのでしょう」と自分の教え方が下手なのかと嘆いていたという。

 実際、学校の先生が休まれるときには、マーちゃんが先生の代わりに生徒に教えていて、担任の先生は他のクラスの先生から、正子ちゃんのクラスは代わりの教師がいなくてもよいから楽ねといわれていたという。

 

忘れ物で何度も大騒動

 一方で忘れ物が多くて、周りのものを悩ましていた。自分の着ていたものも忘れる。受験の時にコンタクトを忘れる。高校時代、鞄を電車の網棚に置き忘れて鞄は米原まで小旅行。体育祭で前夜一生懸命作ったボンボンを忘れる、等々。ただ、忘れ物しても反省はしない。それでまた忘れ物をする。でも、必ず後で忘れ物が出てくるという不思議!後年、青木さんが「繁田先生が歩く後は忘れ物チェックしながら歩かないと(汗)」と嘆いていたが、忘れ物は小さいころからのくせだった。

 

大反抗期

中学のころ、担任の教師に「ゲボ」というあだ名をつけて嫌っていた。なぜ「ゲボ」というのかは「見たらわかる」ということだった。まだ寒い3月の終業式の日にジャンパーの下に制服の上着を着るのを忘れて登校したので「持ってきて」とマーちゃんから連絡が入った。お母さんが急いで学校に届けに行ったところ、ちょうど校門のところに担任の先生が立っていたのでこれ幸いと上着を預けて帰った。ところが学校から帰ったマーちゃんは、お母さんにすごい剣幕で上着を投げ出して「これすぐクリーニングに出して!ゲボの持った服なんか二度と着ないから」といったとか。

英語の試験で、白紙で出したのに通知表は5点がついていたのが面白くなく、また白紙で出したこともある。授業中ノートや教科書に漫画ばっかり描いているので、先生に「漫画家にでもなるのか?」と聞かれたら、すかさず「漫画家になります」と答えた。

当時、中学には服装や頭髪の規制があった。マーちゃんは中学入学まで腰まで届く長い髪を三つ編みにしていたが、その髪を泣く泣く切らないといけなかったので「女が髪の毛を切る気持ちを誰もわかっていない!」と中学校の理不尽な規則に反発していた。生徒会の書記になって、男の生徒がバリカンで丸刈りにされたのを怒り、規則反対運動を展開したという。

 音楽会で先生に「私が指揮をするので正子さんがピアノを弾きなさい」と言われたが、先生が弾いたらどうですかと反抗した。結局先生が折れて、他の生徒が指揮することになり、マーちゃんがピアノ担当でモルダウを見事に演奏した。高校時代、ピアノの先生から「東校の生徒さんはテストになるとピアノのレッスンに来ないんですよ」と言われて、反骨心で一層ピアノのレッスンに励んだという。

 

彦根東高校

歴史が好きで史学がしたいと言っていたが、高校では優秀な生徒は皆理系コースに行くので、理系を選択した。文系は本を読み自分で学習できるが、理系は教わらないと難しいと判断したようである。ご近所の方は遅くまで電灯がつき勉強しているねと言ってくれるが、実は夜遅くまで起きていても本ばかり読んでいた。彦根東校では成績上位20番までの名前を貼り出すことになっていたが、先生はいつもトップに名を連ねていた。高校では超有名人だったので、2年下に妹さんが入学してきたときには、これがあの正子さんの妹かとわざわざ妹さんの顔を見に来た生徒もいたという。しかし、先生は成績を貼り出すことについても良いとは思っておられなかったという。

 

赤鬼魂

彦根東高校は藩校を受け継ぐ名門校である。その建学精神である井伊家の赤鬼魂とは、先駆者精神、先頭に立って活躍する、時代に先立って新しい分野を切り開く、何事にも屈しないチャレンジ精神のことである。繁田先生は、この赤鬼魂を体現したような方だが、先生が赤鬼魂に感化されたというより、子供のころから持っていた先を見通す力、チャレンジ精神、不屈の魂が、この赤鬼魂と共鳴して高校でさらに磨きがかかったのではないだろうか。

 

親にも説教

 彦根東高校の頃、お母さんが商売のことや、家のこと、お祖父さんの介護のこと、姑さんとのことなどで大変な時に、ついつい正子さんに愚痴を漏らすと、「お母さん好きなようにし、私が何でもするから。出ていくなら出ていったらよいし。私が店もするし、配達もするし、おじいちゃんの介護もするし、のんちゃんも大学まで必ずやるし、今日から学校辞める。」と学校に行かなかった。当日はちょうど高校の試験日で、彦根から来ていた会社の人が「正子ちゃん今日試験なんやで」と慌てて高校に車で送っていってくれた。当の本人は学校から帰って来たらもうけろっとしていた。

 

みんなに守られて

 子供の頃から周りに世話をしてくれる人がいて、多くの大人の中で育ってきたなかで、マーちゃんは気配りと我慢強さを自然に身に付けていた。酒屋の子といわれるのが嫌だった。でもみんなに守られて育った。繁田先生の大胆不敵であるが、少し抜けたところのある言動に周りの人が先生を一人でおいておけなかったのかもしれない。

 

医学部進学

なぜ医者の道を選んだのか?これが大きな謎である。本人から医者になるといったのはお母さんも妹さんも聞いたことがない。周りからはうっかりもので物忘れがあるから医者は合わないと言われていたし、医師の伯父からも医師の世界は難しいところがあるから、正子さんに医者は無理ではと言われていた。高校の三者面談(繁田先生は行かないと参加していなかった)では、先生から古い実家のしきたりもあり、長女でもあるからと京大の文学部に行って学校の先生になるように勧められたこともあった。大学受験では、慶応医学部の一次試験は合格したが行く気はなかった。早稲田の文学部を受験し合格したが、父親の従兄である彦根東校の教頭先生から、「正子さんを東京に行かせたらどうなるかわからんよ」と東京の大学進学には反対されたという。そして、府立医大なら絶対受かるから受験してはと勧められていた。

 

医学生時代

入学式のあと、学校側が女子学生の保護者だけを別室に集めて女子学生の心構えについて話をしたというのを聞いて、「なぜ女性だけ特別扱いするの」と憤慨していた。

食用ガエルを使った電気生理の実験で、みんなは元気のよいカエルを取ろうと我先に並んでいたところ、一番後ろに並んで「数が足りなかったらいいのに、死んでたらいいのに」と言っていたので、浪人して苦労して入学した同級生に、勉強する心構えがなっていないと批判されたこともあった。人体解剖実習も感受性の強い繁田先生にはつらいものであったようだ。解剖しているご遺体と、その頃介護が必要になったお祖母さんが重なってしまうので、お祖母ちゃんのお世話だけは勘弁してほしいとお母様に洩らしていた。医学部では勉学だけではなく、ヨット部に入部し、琵琶湖でヨットを走らせ、長野国体にも出場した。

やまびこ国体(長野)


お父さん大好き

地元の小学校の合併問題が裁判沙汰になり、当時町長であった父親が大変な状態でフラフラになっていた時、深夜に呼び出しの電話がかかってきた。たまたま実家に帰っていた繁田先生が電話に出て、一席ぶった。「人間の脳は今の時間には働かないのですよ。皆さん、集まってこれから何をお話されるのですか。皆さん、お帰りになってお休みになってください。父は休ませました。また明日がありますから。」と話した。相手は「よくわかった。今日はこれで失礼する」と引き下がった。その後、中川家にはすごい娘さんがいるとまたまた評判になった。繁田先生は、お父さんの3回目の選挙の時にも、アメリカ留学中にもかかわらず説得力のある応援の文章も送ってきていた。

 

タバコフリー活動との出会い

第一日赤に健診部医長として赴タバコフリー活動との出会い任して、タバコ問題に出会った。呼吸器科医師として多くの肺癌患者の厳しい現実を経験されていた先生は、肺癌になってしまってからでは遅い、予防医学が重要、とりわけ肺癌はタバコ対策が一番重要であると気づかれた。タバコ問題に出会うと、これこそ医師としての自分の使命だと直感されたのだろう。それからは全精力をタバコフリー活動に傾注された。まだ世間がモクモクのころで、禁煙なんかとても無理ではと周りが言っても「時代は変わるから」とタバコフリーの未来を確信していた。

 

防煙授業初期の頃


父親の禁煙

 お父さんがタバコを止められないとき、お父さんが「やめられんのや、正子」と言うと、「やめられへんの、そうなの、やめられへんならやめんでいいで。そしたら、私が医者を止めたら済むことやし、どっちかにしよ。」とぼそぼそというと、「正子命」のお父さんはタバコをすっぱり止めてしまった。先生は、お父さんにとって大切なものは何、タバコを選ぶか私を選ぶかどっち?とそれとなく選択を迫ったのだ。

 

生き方

子どものころから先見の明、本質を見抜く力があった。信じたことを、信念をもってやりぬいた。その集中力がすごかった。切り替えも早かった。周りの人の気持ちをよく理解し、ほめ上手でおだてるのがとてもうまかった。人をその気にさせる能力があった。そして、人の悪口は言わず、自慢はせず、愚痴は言わなかった。そんな先生の周りには自然に人の輪ができていった。

 タバコフリー活動を始めて、常にどうしたらみんなにわかってもらえるかといろいろ工夫をされていた。地元の学校の防煙授業に学生に来てもらうため、学生を自宅に呼んで焼肉パーティもした。この焼き肉が目当てでタバコフリーキャラバンに参加した学生も少なくなかったが(笑)。禁煙グッズもお母さんに作ってもらっていたのも、周りの人を巻き込むという、さりげない仲間づくりでもあったようだ。

 

新居浜での防煙授業


タバコフリーをめざす仲間へのメッセージ

先生は2012年正月明けに手術を受けられた。病状は深刻なものであった。繁田先生が2012年の初秋、「これまでとこれから」としてタバコフリー京都のメンバーへメッセージを託された。「タバコフリー活動は、論理的で、グローバルで、奥が深くて、多くの事象に応用がきき、人間として、やって悔いのない素晴らしい仕事だと思います。特に、この会のおかげで、人に恵まれ、やるべき仕事に恵まれて、非常に面白い15年をすごしました。社会にもいくばくかの貢献できた確信があるし、多くの命が救われた実感もあります。」とタバコフリー活動の意義とすばらしさを述べておられた。

 

禁煙デー イベント


病気のこと・旅立ちのこと

家族には心配をかけたくないと病気のことも母親にはほとんど話さなかったし、家族も病気の話はしなかった。もしもの時のために実家近くのヴォ―リス記念病院に見学に行って受け入れを依頼されていたが、亡くなってから「繁田先生らしく、患者も医者もすべて自分でされたのですね」と知人の医師は漏らしたという。自分の亡くなった後のことも周到に準備をされ、葬儀の時の導師は盟友で光明院住職でもあった田中善紹先生に早くから依頼されていた。お墓の場所も妙心寺のこともさっさと自分で決めて、戒名は付けず、「繁田正子」と本名でお墓に入られたのも繁田先生らしい。

 

早すぎる旅立ち

繁田正子先生は、惜しまれつつ2014年3月6日に亡くなられた。享年57歳。「正子ちゃんは気の毒やったな」と皆が言うが、お母さんは「親に先立つ不孝というが、正子は絶対親不孝ではなかった、あんたに助けられてきた。あんたは親孝行やった」としみじみと語られた。妹思いの繁田先生は、会社を妹に任せるのは苦労するだけと心配されていたが、今は先生の娘さんの夫が後継者として酒造りの修行中であり、繁田先生はきっと「ヤッホー」と、ほくそ笑んでいることだろう。繁田先生は、これからもみんなに元気と笑いをもたらしてくれるに違いない。

2013年12月 東福寺